2018/9/9 十一日目の記録【波止場のワークショップ】

2018年9月9日
午前中は飯名尚人さんによるテクノロジー(映像技術)とライブ(演劇)をつかったクリエーションWS、午後は清水寛二さんによる能のWSを行いました。



午前10時スタジオ
【飯名尚人さんWSクラス】

モニターを用意したので、今回はカメラとモニターを使って、課題をつくってみる。

「カメラで、前回撮った写真を映してみると、これは映像作品ということななるのだろうか?」
一枚の写真は、一枚の写真として見られる。しかし、映像にすると、そこから編集されたりズームされたり、写真から応用で、もっと情報を切り取るとこができる。
演技のスペースがカメラの映るところだけなので、舞台慣れした人には窮屈に感じるかもしれない。そのギャップで遊んでみる。


今回の課題「前回撮った写真を使って、カメラに映し、ライブの映像をつくってみる」
発表のルール:まず今の時間は、自分とカメラの関係を実験するということに使う。
全員発表する時間がないから、そのグループから一人だけ発表する。
3人のグループに分かれる。
やっていると、カメラにどう映ってモニターでどうなっているのか本人に見えないので、チームの人が教えてあげる。
一時間:クリエーションタイム

発表
テクノロジーとライブ(演劇)のクリエーション。お互いに色々な一面を発見をしていく。映像を使うことで気づけること。カメラで視野を編集すれば、空のないところに空の写真を映して、まるで気持ちのいい晴れた外が本当にあるようにみることができる。
・過去に撮った写真が現在写されているという、時間的感覚。
・空間的なギャップ。
この時間と空間のギャップを利用しながら、生身の人間がここでどうパフォーマンスしていくのか、ということ。
綺麗な映像を撮って、舞台上に流すことで「演劇と映像のコラボレーション」ということではなくて、どう時間や空間の意識を共有していくかがコラボレーションなのである。
いくつかのチームでは、カメラを三脚じゃなくてハンドでやっていたところもあったが、こうすることでも映像はかわる。演劇だとお客さんが移動しなきゃ見られない者が、カメラを移動させることでみることができる。視点の操作ができる。
これからも、日常の中でそういうアンテナを張って、「ここにはどんな情報があるのか」「そしてこれをどうライブの身体とコラボレーションできるのか」そういうことを意識してみるといい。




午後13:00~
【清水寛二さんWS】

今回のWSのクラスでは、「立ち尽くす」「ただよう」ということを、テーマとしてやっていく。「ただよう」など、訳すのに難しい言葉を使ってしまう時もあると思うけれど、100%理解することが一番ということでもないので、誤解からうまれるアクシデントもこのクラスの中ではおもしろいととらえて、寛大に。


・清水さんによる実際の場面
墨田川という曲の場面。亡霊が出てくる最後のシーン。
「昔ある京女が、息子をさらわれてその後を追いかけ、墨田川で船に乗り上った。向こう岸に、ひとつの墓が見え、その塚には柳の木が植えてあった。それは、子供の墓だった。そのお墓の前で祈っていると、子供の声が聞こえて亡霊が現れる。しかし、日が上がって朝になると、亡霊は消えて塚だけが残り、ただただ川が流れている。」

能には幽霊や亡霊が出てくるものがたくさんある。大体が、生前どんな思いを抱いていたのか、もしくはこの場でどんな風に死んだのかを語ることが多い。ある旅人がいて、その人に語るという形式をとることが多い。もしくは、自分を殺した人に対して、その時のことを再現してみせるものもある。


海の漁師が主人公の話。「藤戸」
「その漁師は、戦の時、馬で渡れる海のエリアを知っていた。それをある武将に教えた。しかし、戦に勝った時、武士はその手柄を他の人に横取りされないように、その漁師を海に沈めて殺してしまった。節がそこまで渡ったことによって手柄を得て、その場を領地としてもらった。そして、武士がその領地を訪れると、漁師の亡霊があらわれて、自分はお前に殺された、とその場面を再現してみせる」

杖はあの世からこの世へ現れる時のパワーをくれるアイテム。話しながら、自分の殺された場面の再現するときは刀に使っていたりもした。恐怖に襲われながら自分の身体に刀が入ってくるとき、また武士を殺そうとするとき。すると、武士は幽霊を拝む。そうすると、幽霊はもう武士に危害を加えることはできなくなる。最後は、あの世に帰る舟に乗って、杖をオールに使って帰る。だけど、この幽霊は本当にあの世にたどり着けるのか。もしかしたら、水の上を永遠に漂い続けるのではないか。亡霊は静かに退場していく。「たちつくす」と「ただよう」。杖をばたっと落とすが、あれは「よるべ」を失うということの暗示。もう、どこかへ行く力は失って、ただ「ただよう」。


・「声を出す」
なぜ、扇を持つか?能では、声を出す人は全員扇を持つ。違った、ステータスやキャラクターを表すときもあるし、全く持たない人物もいる時はある。先ほどの幽霊は、杖を持っていたが、扇も自分以外の力を受け取る役割を持つ。アンテナのようなもの。


☆一句、みんなで覚える!
元々は中国の話で、とてもお酒が好きな妖精の話。猩々(しょうじょう)、という妖精。一人の孝行息子に、お酒の甕をくれる。ここにはお酒がはいっていて、汲んでも汲んでも尽きることがない。このお酒は、ただお酒という意味ではなくて、幸せや平和の象徴であり、この甕が届けられた家には幸せが尽きることがない、そして世界も幸せと平和が尽きることがない、という曲。
扇を持ち、先を軽く床につける。

「さむる(酔いから醒める)とおもえば いずみはそのまま つきせぬやどこそ めでたけれ」

(ぜひ覚えて帰って、どこかの宴会でつかってみてください)
今回のセッションの最後
映像をとってもいいけれど、重要なのは「ここにいる」ということです。



・「歩く」
円になって、まずは「立つ」をやってみる。一人一人、清水さんが形を直してくれる。そのまま、しばらく立ち尽くす。
それから、かかとに気を付けて、部屋の中を四角く歩いてみる。方向転換のときは、「かける」の足の運びで直角に曲がる。
かまえによって、全部上へ上へあげて、それをすべて足の裏におとす。足の裏と床の摩擦をもっと感じる。「やじろべえ」のように、腕が重りとなって、下へひっぱる。水の入ったバケツを持つように。頭、背骨、腰が繋がって、床に重さがかかる。
部屋を四角だけじゃなく、対角線の移動も可能にする。もし、向こうから来た人とぶつかったら、その場でお互い一瞬とまって、ゆっくりと相手の左側を通って避ける。避ける時は自分のタイミングでずれるのではなく、星と星とが距離を保つように、お互いの力を感じながら避ける。「月と太陽が引力を持つように距離を保って」
また、自分の前を歩いている人に対しても集中する。
歩きながら、スピードもかえていく。はやく、最高速度、それからまた落としてゆっくり、最後3分かけてゆっくりなところからまた半分におとして歩く。
(時々、惑星の間を通る彗星みたいに、全然違うところを通る人がいるのが面白かった。)
「実はこれは、ベケットの「クワッド」なんです」


・能面をみせて頂く
4つの能面。

・墨田川の面
作者や時代はわからない。悼んでいるけれど、舞台上でみると綺麗にみえる。面は必ず、顔の横の決まったところだけを持つ。

・ひがき女の面
墨田川より少し年を取った面。若い時は綺麗で、たくさんの男を悩ませていそう。
おそらく700年前のもの。面の裏側は削って作った跡があり、とても生々しい。
能面も修理する。塗り直したり、全面的に改修したりもする。
この面は、例えば、原爆にあった人の場面などで使われたりもする。
能面の最初のころの創作性が残っている。

・翁面
ひげを蓄えて、歳をとったおじいさん。神様の化身で、人の姿になって出てきたときに着けられる。おそらく江戸前の300、400年前のもの。
年をとっているという事は、「老い」ではなく「たくさんの生命力を積んできた、命のエナジーの象徴として使われる。(もちろん、具体的に老いていることを表す為に被るときもある)
完全に優しい顔をしていないのは、神様の厳しさの部分も現れている。
髪の毛はたぶん馬のシッポ。修理できるちゃんとした人は日本に何人かしかいない。

・猫面
作られたのは最近で、とてもモダンな作品。このような動物のかわいらしいものは、能面の伝統の中にはなかった。狐面をつかうのは狂言。


能は、死者を演じるためにある。だから、生きている人じゃない者を演じるために、「かまえ」や、あのような型がある。やはり、踊り終わった時は、ただの体力の消耗ではにものがある。
虚構の話にどうやってリアリティーを持たせるか、という所にはやはり気を遣う。だから、例えば原爆の能をするときは、実際に長崎の現地へ行って、その場の空気を取り込むようにしている。
・いままでの能には、この猫のような面はある?
伝統の中ではないが、例えば「たかひね」というイエーツーの能をやるときは、「岩」という役で、新しいこういう面を使う時もある。ト書きには「岩の精」ではなく「岩」と書いてある。8~10人がギリシャ悲劇のコロスの役割で、岩だけど動く。(青年が泉を求めてやってきたが、いつまでたっても遭遇しない。探し回っているうちに、そのうち青年は岩になる。泉のまわりにはたくさんの岩があり、もしかしてこの岩たちも、泉を求めてきた青年なのかもしれないと思わせる。岩は時折呪文のようなものをしゃべり、輪唱する。すると、ぐーっと泉が沸いて、「たかの女」(泉を守る精霊)が現れて、舞を舞う)
・能面はどうやって引き継ぐのですか?
一言ではいえなくて、面には色々な経路があり、経路から流出してしまう物もある。例えば、江戸から明治になったとき、国や大名からサラリーを貰っていた能楽師は、体制が崩れたことによってそれが無くなり、面は沢山売りに出された。それでNYやボストンにはたくさんの能面がある。
・仮面のレプリカはあるのか?もし、この役にはこの面、と厳密に決まっていたら、その話をするときには、必ず持ち主を招かなければいけないのか?
面と役の組み合わせは固まっているわけではなく、ある程度臨機応変に選ぶ。たとえ、その組み合わせの選択で雰囲気が変わってしまっても、そこはあえて「たくす」。たくす、ということも、能の重要な演技であるかもしれない。
・翁の面には耳があったが、他の女面にはなかった。
女の面は、もっと抽象的な表情を出している。
中年男性の面には耳のないものもある。また、男でも鬼みたいなものには生えている。
・新作の能をつくるとき、面は新しくしますか?能楽師としては、古い方がやはりいいのですか?
作品によって、古典の面が使えるのであれば使うし、作る必要があれば作る。
原爆の話ではマリア様が出てくるが、これは古典の女神の面を使っている。どこにベールをかけている。能は昔からの面を、どんどん修理し新しいエッセンスが加わっているから、新しい面をつくるということが、構造的に難しい。


・舞台が現代の能について
現代の人を表すのはホントに難しい。まず、服がしっくりこない。やっぱり言葉、セリフも「せんじゅつ」や「リズム」に現代語はなかなかあわない。能の発声は、しゃべるというよりうたうものなので、現代感を出すのがなかなか難しい。だけれど、それはもしかしたら脳が固まっているからかもしれない。これからも、新しいものへ挑戦していきたい。

WHARF workshop 2019

アジアの舞台芸術にかかわるあたらしい担い手 のための「波止場のワークショップ」 “The Wharf Workshop” for uprising figures who will lead the future of Asian Performing Arts 「码头工作坊」参与亚洲舞台艺术的人为对象

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